米沢牛の歴史

山形県南部の置賜地方の米沢市、南陽市、長井市、高畠町、川西町、飯豊町、白鷹町、小国町では、天和元年ごろから、牛を導入した農耕や運搬が行なわれるようになり、これが牛の飼育の始まりであると言われています。

しかし、この頃は、牛は働き手の1つであり、牛肉として食べるようになったのは、かなり後の明治時代に入ってからで、米沢牛が全国に知られるようになったのは、明治の中ごろに入ってからです。

米沢県学校に赴任をしていたイギリス人洋楽教師が、任期後、横浜へ戻る際、お土産として米沢牛を持ち帰り、それが好評だったことから、横浜の問屋が販売し始めたのがきっかけとなりました。

そして、明治32年の奥羽本線の開通は、米沢牛の大量出荷を可能とし、それが全国に米沢牛の名を広めることに拍車をかけることとなったのです。

この米沢牛の広まりを境に、他の地域でも農耕用の役牛の飼育から、食用の銘柄牛の飼育へと移行していき、現在では米沢牛だけではなく、松阪牛、前沢牛、飛騨牛、三田牛、仙台牛なとと、多くの良質な黒毛和種が生産されるようになりました。

全国に名が知られるようになってからも、米沢牛は、生産、流通、出荷、そして消費までが、全て置賜地域内で行なわれ、地域に密着した産業でしたが、昭和63年の東京食肉市場への出荷をきっかけに、より大量に消費されるようになりました。

現在ではインターネットでの通販を扱う業者【その1つが》黄木】も多くなり、さらに多くの人が米沢牛を楽しめるようになりました。